いい加減にして欲しいという話です。 そもそもカバー・コピーというものには原典に対してのリスペクトが不可欠であって、それなくして仕掛けられたトリビュートはもうそらトリビュートではないただのパクリなんである。優れた過去のものに寄りかかって金儲けようだなんて考えるまでもなくばかげた話で、そんなばかげた話が世間に許されるのは「だってすごく好きなんだもの!ダイスキなんだもの!」という子供じみてはいるがまあまあ純粋な気持ちあればこそなのであって、要するにいい加減にしてほしいのである。いい加減な仕事で金儲けしやがって。日々たいして面白くもねー仕事して銭を稼いでいる善良な市民たる我々から。金を。巻き上げやがって。金を。そんで自分達はいい気なもんでクリエイター気取りで浮かれ街あたりで名を上げやがって。(わかれ歌)そんな酔いどれ風味でのうのうと。日々を過ごし。やがって。酒も煙草ものみほうだいで。オシャレなおべべも買い放題で。六本木でしゃぶしゃぶとか食いやがって。雑誌に対談とか載せやがって。許さん。 ということで善良な市民代表として私は今ワールドワイドウェッブの一飛沫なりに非道な似非クリエイターどもに一矢報いんと試みる。何がってこれだ。
はっきり言ってどちらも糞ですが、それでもまあユメ十夜の方が海賊版よりはいくらかましでした。というのも、元々企画として立ち上がった「ユメ十夜」に真っ向から若手クリエイターが集い挑戦する!というコンセプトのもと始まったのが「夢十夜海賊版」だったらしく、正直見に行く者としては挑戦だろうが何だろうが面白くなきゃ意味が無いわけですが、というか自らの存在意義を他者に嫁しているという時点でもう創作物としては失格なわけですが、ままそういうこともあろう。ということで大目に見たというか本家のユメ十夜がかなりの糞っぷりだったこともあり「こりゃひょっとして海賊版の方が面白い、みたいな、才能の下克上的な面白いこともひょっとしたらありうるよね」ということで毒を食らわば皿まで的発想の下わざわざ吉祥寺なんてとこにも足を運んだわけです我々は。クソ遠いっつーのに。ほんと勘弁してほしい。 そんで結果はといえばサイテーでした。何というか、ユメ十夜の方は「つまらん映画」レベルであって、つまんなくはあったけども少なくとも映画にはなってた。なってたと思う。しかし海賊版の方は何ていうかあれは映画というレベルにすら達してはおらず、例えて言うなら文化祭で学生が撮ったフィルム。みたいな。ストーリーとして破綻しているのはもちろんのこと、ひっぺがしてもひっぺがしても自分語り。んで作った人にしか分からない話どころか、多分作ったやつも分かってない。作ったやつが何となく分かった気になってうっかり完成って言っちゃったか、もしくは分かってないけどひょっとしたら見に来てくれた人が物凄く良い解釈をしてくれるかもしれないと一縷の望みをかけて完成って言っちゃったかのどっちかだと思う。つかわかんねーよわかるかボケ。作ったやつが分かってないのに見に行った人が分かる訳ねーし。アホ助。タコ丸。局部丸出しで死ね。 と。ここまで言ってもすっきりしないのでというか私は別にこんな閉ざされたサイトで口汚く罵るためにわざわざ手元にあったフライヤー引っ張り出してスキャンして取り込んだ訳じゃない。ただでさえCGI使ってないめんどくさい日記を更新したのはこんなことのためではない。
では何のためか。評するためだ。
夢十夜というだけあって、この二本の駄作は十の話がまとまって一つの作品になっている。両方とも、一つ一つをそれぞれ一人の監督が手がけたオムニバス形式だ。その中には、多少良いものもあればこりゃどーしよーもねーとしか言い様が無いブツもあるわけで、それらをいっしょくたに「クソ」と罵るのは何というか器が小さいような気がする(ケツ拭く紙だとか言った人の台詞ではないが)ということなので、ここでいっちょ十夜×2しめて20話の話を評してみようと思う。その中で気になるものがあるならそれだけ見て帰ってくりゃ良いじゃない。という話だ。ではまず本家の「ユメ十夜」から。
第一夜 監督:実相寺昭雄 この実相寺さんて人は地味に松尾スズキを気に入ってたようだなあ。ウブメにも出てたし。何かねー非常に抽象的というか余計なものをそぎ落とした映像を作る人みたいで、そのくせある点ではやけに凝ってたり装飾が多かったり世界観が特殊だったりすんですよ。でも時々凄く必要な説明とか描写が省かれていて、それはその監督なりのスタイルなのかもしんないんだけどそのスタイルに慣れている人じゃないと理解するのは容易じゃないと思うんですよね。要するにファンにしか分からない映画を撮る人というか。要するにあんま面白くなかった。終わり。 第二夜 監督:市川昆 うじきつよしは凄く良かったけど、結末が何せ原作と全く違うのが非常に気になりましたよ。 第三夜 監督:清水崇 面白かった。まあこれは原作の勝利ですね。青坊主のクリーチャーぶりがなかなか良かったお。声も恐くてよし。だからつまり原作により忠実にやる方が間違いの無いやり方だということだと思った。でも夢十夜については原作に忠実にやればやるほど訳のわからんものになる話も多いから難しいですね。まあ三夜は映像化しやすかったってことで。 第四夜 監督:清水厚 これは映像化しづらいわけ分からん系の最たるやつですね。試行錯誤の跡がよく出てました。しかし面白くはなかった。バスに沢山乗ってる老婆とかは良かった。あと山本耕治の夏目漱石も何か江戸っ子っぽくてかっこよかった。そんだけ。しかし他の話にも言えるんだけど、わざわざ主人公を夏目漱石にする必要あんのか? 第五夜 監督:豊島圭介 これもやりづらい系。でもまあ結構面白かったです。舞台を現代にしてることと、原作のストーリーを再構築している点に好感が持てた。いらんもん多すぎた気がするけど。あと役者も良かった。 第六夜 監督:松尾スズキ 最初の数分面白すぎて死ぬかと思ったが後半になるにつれてクールダウン。でも十話の中では一番の敢闘賞。原作に忠実にストーリーを良く理解して再構築、その再構築後の世界が程よく原典から隔たっていて宜しい。中盤でだれたのは残念だけど、ラストはなかなか良かった。さすが松尾スズキではあるが、一番期待してた松尾スズキさえこの程度の面白さだったことに見に行った友人ともどもちょっとがっくりであった。 第七夜 監督:天野喜孝・河原真明 あーFFの絵だ。って感じ。 第八夜 監督:山下敦弘 原作が難しい系。んで再構築しようとしてわけわかんなくなった系。やや監督の心の中でのみ完結テイスト。見てる人置いてけぼり。ただ小ネタでこまごま面白い事はあった。いくつか。 第九夜 監督:西川美和 期待してなかったものの意外と良かった。時代設定とピエール瀧と緒川たまきが良かった。ストーリーもシンプルで、誠実さを感じましたよ。映画然としていた。 第十夜 監督:山口雄大 盛大に滑ってました。松ケンが可愛かっただけという印象。割とストーリーとしてはやりやすい方だったと思うけど、残念な結果に。松ケンは可愛かったのにねえ・・・
疲れたので海賊版は後日追記といたします。これ、見た直後はもっと辛口な意見だったと思うんだけど、海賊版見た事でちょっと評価が甘くなってる・・・・
更新します。いい加減胸糞悪いCMをいつまでもトップに掲げておくのはあれだし。とかいっていや嘘どうでも良かった。超どうでも良かったんだけど今日は是非これを書かねばという事も無かった訳でもないし何より詳細は後ほど!とかつなビィに書いちゃったからとかいってどーせ誰も見てねーし期待もしてねーであろう事はいくら自分ダイスキ頼まれてもいないのに当ホームページで自分情報絶賛発信中の私とは言え分かってはいるがそんな事はどうでも良いのだっていうかここ見てる人がどうであれこれはもう是非とも言いたいのだ。私が。私個人として。
で、何をって話になるんだけどそもそも何をも何も上の写メ記で言うとるやないかと。メタルマクベス超よかった と。だからつまり私が今ここで語り始めようとしている事象も結局その一言に尽きるっちゃ尽きるわけで、てことはこんなこと睡眠時間削ってまで書く必要も無いんだけどそりゃその一言にもうちょっと色々付け足したい事もそれなりにあるわけで、そこを無視すると悲しい勘違いをしてしまう人も多数いるかもしんないのである。いぜうりゆう。ふう。 ん、でー。そもそもこの「メタルマクベス」ってのは何なのかってところからなんだけど、これはお芝居だ。映画じゃなくてつまり舞台。ぴあで言うところの「演劇」ってやつである。先日この舞台のDVDをヤフオクで探していたら、何と「メタルマクベスのチケット」が何件か出ていて、しかもそれが2000円弱!ということで喜び勇んで落札したのだ。つか何気にヤフオク初挑戦だったんですけど取引した相手の方がとてもスムーズに事を運んでくれて超助かった。トラブルとか起こったらどうしよーかと思っていた。(チキン) んで、私はもう完全に「舞台のチケット」つまり舞台を見に行く為の券を買ったと思い込んでたわけだけど、これが後からとんでもない勘違いだったことが判明するのである。要するに私は生で舞台を見る気満々だったんだけど、このチケットはゲキ☆シネによるメタルマクベスのチケットであり、つまりゲキシネって何。てのはリンク飛んでくれたら分かると思うんだけど要約すると「舞台の映像をスクリーンで流しますよ」という試みだ。だから観客は映画館で舞台を見られる訳で、つまり私が手にしたチケットってのは=映画のチケットみたいなもんだったのである。な、何だってー。つまり私はわざわざ映画の前売り券みてーなもんをヤフオクで落としたってわけかよー。あほくさ。めんどくさ。
まー、考えてみりゃ普通6000円くらいする舞台のチケットが2000円っておかしいんだけどね。でも私は舞台を見に行った経験も殆ど無く、なおかつヤフオクにおいても初心者だったため、「ネットオークションって凄いなあこんなに安くなったりするんだあ」くらいにしか思っていなかったのだった。いつの世も損をするのはおのぼりさんってね。ヘヘッ。 ともかく、これを読んでいる人たちに言っておきたい事は、万が一メタルマクベスのチケットが2000円くらいで手に入るとしたらそれは舞台チケットではなくて映画館で見るメタルマクベスのチケットであるぞよということ。つか改めて書くとほんと私に言われてもみんな分かってるか。分かってるよな。みたいな内容で恥ずかしいんだけど。
まあでも、せっかく取ったので今日見に行ってきたんですけど。これがなかなかだったわけです。そんでここに書いてるわけです。そもそものメタルマクベスのあらすじはここらへんを参照してもらうとして、ここではひたすら主観的な意見を。 まーキャスト見てもらえば分かると思いますけど私は森山未来目当てで行ったわけで、件の彼は最初の登場シーンからピョンピョン魚みたいにえびぞって跳ねてるわ踊ってるわタップ踏んでるわ歌うわ可愛いのかっこいいのってそりゃどっちっつわれたら困るけどとにかく非常に魅力的で活きの良いみずみずしい演技をしており大満足。もうおなかいっぱい!なんだけどそれだけじゃなく内野聖陽も松たか子も橋本じゅんもかなり良かったし話の展開も1980年代と2200年代を行き来しながら無理なくつながってたし、あと劇中で流れるHM/HRも決して安っぽくなくしかし適度にいかにもミュージカル、な状況説明ちょっと多い歌詞はしっかり入っていて、何というか非常にバランスの良いお芝居でした。凄く面白かった。 見る前はやっぱり、舞台とかあんま見ないし、あの独特のハキハキしすぎた喋り方とか歌いだす登場人物とかに引いてしまうんじゃないか。と思ってたけど、そんなのは見てる間にすっかり慣れてしまいました。むしろ「舞台とかってあんま知らないわー引くかも。」くらいの人には、あのゲキシネっつーシステムは丁度良いんじゃないかと思う。舞台なんてあんま行かない人にとって、1枚6000円の本舞台はそりゃもう敷居高いなんてもんじゃないし、ちょっとやそっと好きな人が出てるくらいでは足は運ばない。でも映画館で見るなら気楽だし何より安いし、そんで映画館で見たら絶対「ああ、本物を見たかった・・・」と思うと思うわけである。(まあその劇自体がつまんなかったら話は別だけど)だからこのシステムは凄く良いアイデアじゃないかなあ。と思う。分かんないけど。劇見に行く人が増えるんじゃなかろーか。実際私も友達と「これ再演する時は絶対見に行きたいよね」つー結論に達したし。
そういうことで、結局言いたかったのはメタルマクベスが超おすすめだってこと。見たい人は16日まで新宿のバルト9という映画館で上映しているのでいっといで。いぜう。ふう。
脈絡もなく今流れてるCMの中で1、2を争うレベルのクソCM。ムカつくとか通り越して生理的に受け付けない。気持ち悪い。おぞましい。これ考えた人間の神経を本気で疑うわ!!!(キィイイイイ)女の口調もムカつくんだ。だいじょぶなんですぐぅうう(って聞こえる)じゃねえええええええウオオオオオ!!つかもこみち、引けよ。もっと引けよ。引いていいんだよ。
とにかくダイハツのCMは個人的にスゲー苦手なのが多いです。作ってる人ととことん趣味が合わないんだと思う。合わないつーかこれが良い!って思う人なんているの・・・?ちょっと本当にいるなら一度お話してみたい。そんで真剣に何処が良いのか教えて欲しい・・・これにムカつかない神経が本気で羨ましい。そういうのを欲しい。別に毎日毎日好きでムカついてる訳じゃないしいやちょっと嘘。結構エネルゲン。まあそれはどうでもいい。
ちなみに好きなCMは国際物流のUPS。こういうの好き。あとちょっと前に多分どっか外国で流れてたフォルクスワーゲンのCMとギネスのCM。見つかんなかったので見つかり次第また貼ります。ホホホ。
>「風の旅人」の人 その雑誌知らなかったんでググって見たら第24号”ROUND OF LIFE”の紹介文(約30行)のうちに 死って漢字が8つ出てきましたけど。そういう雑誌なんですね・・・ちなみに「悲しみ」は5つ。もう二度と手に取らないが良いよ。(厳しい口調で)
>ハーレクインの人 そもそも美人だとか美男子の描写って凄く退屈なのかもしれません。それは多分美しいという事に理由をつけるのが蛇足だからじゃないですかねえ、だって好きなものの説明って出来ないでしょう・・・キライなものとか気持ち悪いものとかの説明および描写は凄くやりやすいんだけど、好きだったり綺麗だったりするものはもうただ好き!綺麗!ってだけで終わらせたいっていうのが普通の人間の感覚なんじゃないかと・・・私だけですかね。そうですね。まあ良い。
>バッファローの人 ブハ!ちょっと!そんなん此処で言って良いのか!!つーかちょっとうらやましいんですけど・・・その声をかけてきた若者は単館系シネマをこよなく愛する渋谷系男子に違いない!!まあ、渋谷とか言いながらそっちの住人なわけだけど・・・・(プークスクス)でもバッファローは私からも謹んでお勧めするのら。ただそれ以降のギャロ作品はつまらんので見ないが良いわ。(断言)
メルフォ楽しいなあ。何か、色々下さい。(強請・・・・) ところで全然関係ないんですが来週の水曜に念願の「リトル*ミス*サンシャイン」を見に行きます。わーいわーい。楽しいといいな。つーか映画って言えば「人のセックスを笑うな」が映画化されるらしくて小躍り。しかもみるめくん(主人公)役は松 山 ケ ン イ チ ですってよ!!ギヤー!!嬉しい!まあ未来タンが私の第一希望だったわけですが、今や彼も23歳だからね・・・フフ・・・・顔立ちも何処となく大人っぽく引き締まってね・・・もう男まっさかりって感じでね・・・フフフ・・・・(黙って)
これはピクトアップとゆー雑誌に載ったマツケンさんの写真だけども、これを見て「あれ?でもいやまさかまさか」と思いながら撮影協力一覧を見たら「art bird books」の文字・・・・やっぱり!!これ中目黒にある超狭い古本屋!あたし行った事ある!つーか狭い上に店長らしきおっさんが接客もせずずーっと私事の電話してて萎えて即出たけど。置いてある本も殆ど洋書とか難しいやつばっかだし。まあでもかなり雰囲気はあったから、撮影とかには向いてんだろうな・・・・ああ私が踏みしめた階段をマツケンが・・あのマツケンが・・・・つまり私とマツケンは間接的に足の裏をくっつけたと言っても過言ではないってことよ。キャア嬉しい。フェティッシュな喜び。ちょと嬉しい。
とはいえ中目黒にはもっと素敵なお店が沢山あるので折角遊びに来た人はこんなとこ行かずにchanomaとかチーズケーキのヨハンとか上目六さくらショッピングセンターとか行きましょうね。って食いもんばっかり!!
マツケン目当てで買ったら田中哲司さんという地味に好きだった俳優さんも出てらしてあたしキュンキュンしっぱなしよ。
イベント行く予定だったけど風邪引いたのでNO。急遽ドネッター。急遽っつーか。いつもですが。つーか眠いし寒いしめんどくさいし、いやもちろん行きたかったんだけど行けなかったんだけど風邪引いてなかったら行く予定だったんだけどじゃあこのゆったりした気持ちは一体何?1mmも悔しくない自分って何?でも行ったら絶対楽しいんだ。毎回そうなんだ。しかし再来週は静岡のクラブまで行くついでに静岡おでんを食すという計画付きなので這ってでも行くがな。行きますがな。おでんってほんと優れた食べ物だと思う日本人でとても良かった(片言)ちなみに台湾では関東煮という名前で売られてますよ。おでん。関西の人が見たら怒ると言えよう。でも別に関西煮って食べもんがあるのかもしれんね。いや知らない。(まるなげ)なんて書いた後で調べたら関東煮って名前は関西でフツーに使われてる呼び方だということが判明した。マジかお!関西の人はそれで良いのか。ほんとに良いのか。
つーかまさに、ついさっきまでトップにあった日記で私はひっそりとブルーハーツのCDを推してたわけだけども。
私はヤンキー文化に弱い。高校時代といえば自分自身は全く、というか寧ろ正反対の文系ネクラ女生徒であって、へらへらと日常に順応しながらも、心の奥底ではどいつもこいつも馬鹿だとか思いつつ太宰を読みつげ義春を覗く 要するに泣ける程ありがちなキャラだった。部活や運動とは無縁で、唯一バンドを組んでいた事が青春っぽい要素だといえばそうだけども、基本「仲間」とか「友情」とか、そんなもんからはかなり遠いところにいたと言えよう。 そもそもが、私の生きた時代にはヤンキーなんていなかった。いないことは無かったんだろうけども、少なくとも私の周囲にはいなかった。彼らは受験勉強をしながら学校のトイレで煙草を吸い、英単語や年号を覚えつつウイスキーを飲みすぎて吐いた。ケンカをする子はいなかった。どこまでもまともで、それでいて何をするか分からないそら恐ろしさみたいなものがあった。要するに、みんな子供だったのだ。 そんな時代にあって、そんな友人に恵まれながら、やはり私はどこかで先述のヤンキー文化に触れ続けていたように思う。紡木たくの「ホット・ロード」は友達から借りて1日で読んでしまった。兄の本棚から抜き出した松本大洋短編集に出てくる前歯の無いヤンキーの顔が愛しくてとても好きだった。漫画自体が面白いとか面白くないとか、そういう視点からはまた別のところで、心に引っかかる鉤みたいなものを無数に見つけた。その不安定さや、脆さに痒みのような憧憬を感じた。私の周囲にはいない、不良と呼ばれたそれらのモチーフには どこか自然体でいられない弱さがあって、その弱さがやるせなく、愛しいのである。それは自分や、自分の友人達には感じない愛しさだった。当時既に過去であった80年代という時代に感じるノスタルジーにも関係していたのかもしれない。 そして、90年代さえも過去になった今 私は漸く、ヤンキー文化の筆頭、最大手の元祖も元祖 ブルーハーツを聞いたのである。
それらの時代や文化に共通点を持ってはいないものの、そういったものにグンと惹かれる。いわばヤンキー文化遺伝子みたいなものが私にはある。あると思っている。そしてこの遺伝子を持っているのは、決して私一人じゃない筈だ。年令も性別も関係無く、ただむしょうにこの不安定で不器用な愛らしさに釘付けになるタイプの人種というものがある筈なのである。そういう人たちにとってきっと、ブルーハーツの曲は出会うべきものじゃないかと思う。あんま自信無いけど。少なくとも私と一緒なら、そうだろう。 まあ、今日の日記で言いたい事は「ブルーハーツ、いいよ」の一言に尽きる訳で、この一行だけ読んでもらえれば万事オッケー。しかし2007年にもなってブルーハーツについて熱く日記を書き付けてるって、言っちゃ何だが異常だなあ。でもまあ、暇があったらちょっと聞いてみて下さいよ。お願いしますよ。きっと何人かハマるから。
<追記>更にアフィリ追加。このブームいつ終わるんだろう・・・
「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」 私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。 「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」
(「こころ」より)
思う事は多々あるけれども、それにつけてもやはり何を一番人として強く思うかと言われれば「利口になりたい」という一事に尽きるのではないかと思われる。特に人間というものに限って言うなら、バクテリアかプランクトンか、何かよく分からないそこらへんのうようよしたもんから今の姿にまで大きく成長し、火一つにわあわあきゃあきゃあはしゃいでいた猿の時代からケータイ電話、パーソナルコンピュータ、ヒアルロン酸化粧水など様々なテクノロジーを駆使したケミカルマターを手玉に取りあちらからこちらへ、こちらからそちらへと活用し利用するフルスロットルな現代に至るまで各々の脳髄を引っ張り上げた、その恐ろしいまでの進化力の源とは何か。といえばひとえに「頭良くなりてええええ」の一言から来ているのではないか。と解釈する次第であるからして、昨今においては頭の良くなる薬や頭の良くなる机、椅子、ランドセルはもちろん、ひいては「これを食うと頭が良くなる」という最高に頭の悪いキャッチコピーを携えた頭脳パンなる非科学的なものまで好評を博し菓子パン界のロングセラーとなっているわけで、何故山崎パンに勤めている親戚がいるでもない私がそんな事を容易に把握しうるかと言えば、2007年の現代においてもなお、未だに件の頭脳パンが世の流行をいち早くキャッチ、マーケティング調査および解析・そして分かった事はすぐ実行の三角パスで成り立っている筈のファミリーマート駒岡店において棚に並べられピーナッツバターサンドの隣という好位置を与えられ、菓子パンマーケットのメインストリームに確固たる地位を築いている点から考えれば推察に難くないのだがつまるところこんなことはどうでも良いのだ。やはり人として何が嫌って、自分がバカなこと。そして自分の知り合いがバカなこと。次に自分の家族がバカなことである。
ここで問題となってくるのは「バカってなに?」ということである。学校の成績?営業の実績?経験?知識?いいやそうではない。何かもっと根本的なところに、「バカ」と定義されるべき点があるのだ。じゃあどこに?どんな具合で?ここが分かっていないと、開き直ったバカに「バカバカって言うけどじゃあ何が具体的にバカなのよ。言ってみなさいよっ。」と詰め寄られた時に口ごもってしまって今までの流れ台無し、みたいな事になるので注意が必要だ。バカは自省というものを知らんので、わが身を顧みて考えない分やけに瞬発力が強いのである。ここはバカとの答弁にきっちりと備えておかねばならない。 それで結局バカとは何か。これはそれぞれの考えによって違ってくる点だと思うが、私個人の考えで言うなら「身にしみて感じた事や決めた事を忘れてしまう」のがバカなんである。と私は思う。「ああーこれこないだもやって次からは気をつけなきゃと思ったのに・・・・・・ィイイイ!!!!」みたいな。あと「危険予知能力がべらぼうに低い」とかも凄いバカっぽいと思うけど今回はまあ保留。ちんちんに熱せられてる鍋の取っ手とかをフツーに手で持とうとしたりする奴とか、冬の真夜中に集合するっつーのにすげー薄着で来る奴とかいるだろう。平気だと思ったのにー、さむーい。とか言って。あいつらもバカなんだけどほんとは。でもまあ今回はそういう人たち、無視。
さて、これで「バカたるもの」の正体は明らかに定義付けされたわけで、つまりバカになりたくないならそういった「バカ」をせねば良いのだ。という事になるわけであるが、そこが一筋縄じゃ行かない人間様の抱えた憂鬱なパラドックスである。一体なんでこんな事になるのか、考えただけでも絶望。「バカにはなりたくないなあ」「よしバカをせんように気をつけよう」「さしあたっては最近いつバカをしたかなあ」「あの時とこん時とそん時にもバカをしたなあ」「ではこれからは今までの自分を反省することで日常におけるバカを減らしつつ生きていかねばなるまいなあ」「とっぴんぱらりのぷう」これで良いじゃないか。しかしこうはならんのである。それは今日の日記でまず引用したKを例にとっても明らかだ。Kが「僕は馬鹿だ」から何ゆえ「これからは馬鹿をせんように気をつけよう」という方向へ行けず「死のう」つーバッドエンドを迎えるに至ったのかと言えば、要するにKは自戒すべき馬鹿じゃなかったからだ。まあ「馬鹿だ」って言われて「そうだ馬鹿だ」なんてうなだれるような人は違う意味で馬鹿だが、今はそういうことを言ってんではない。馬鹿じゃない人に限って自覚するのである。いや正確に言えば、馬鹿は自覚しない。先ほども言った通り、馬鹿は自省でけんのである。そのように出来ている。自省する能力があるなら、既に馬鹿ではない。つまるところ、さっき私が言ったバカの定義というのは馬鹿じゃない人がやらかすバカであって、結局馬鹿ではない。嘘をついててごめん。何か書いてるうちにそういう事になった。
人間が生きる上でまず、疑わなければいけないのは自分ではないかと時々思う。人間真面目に一つの事を考えれば考える程、その考えている対象について言える言葉は減っていくし、明らかな感情や言動も控えねばならない気になる。誠実に生きていくのだとすれば(それはもちろん世の中に対してとかそういうことでなく、自分に対して誠実に、という意味であるが)多くを語る自分を疑い、笑う自分を疑い、泣く自分を疑い、愛する自分を疑い、憎む自分を疑い、考える自分を疑い、疑う自分を疑わねばならないのではないか?少なくとも、考えすぎなくらい考えなくては先は見えて来ないのではないか?考えずして開かれる未来などあるのか、あるとしたら何だ、宝くじかい。3億円かい。という気にもなろうというもんである。自省しない己を疑え。自省している自分を疑え。その自省は自分に対しての擬態ではないか?本当に?疑いまくれ。疑ってかかれ。考えすぎ?何が?誰が? 考えるより先にキーを打ち、下書きも確認も校正もせずにサーバーへ放り込む自分は明らかに馬鹿である。何故かというとそれは自分の書いたものを疑ってないからであるが、それと同時にまた、私には何よりも疑われる自分について疑っていないという自負もあるのだ。要するに、馬鹿ですよと言ってる自分を認めて欲しい。馬鹿だろうと言って唾を吐きかけて欲しい。さすればこそ、疑ってかかった甲斐もあろうというものである。どうせなら全てを賭して疑いたい。そして、願わくばてっぺんからつまさきまで疑って疑って疑い抜いたものをこそ、最後にひっそりと愛したい。
そんなわけで皆さん、今年も一年よろしくネ。